エスシステムは戦争等には原則反対ですが、正当防衛システムとして
必要な面は支援します。
しかし、現在の官僚組織では先の大戦時の大本営海軍部・陸軍部と全く変わらない為
縦割り行政弊害防止の観点から組織変更なしでは認められません。「失敗から学ぶ大切さ」を
軍隊などに例える抵抗感はありますが尊い犠牲を無駄にしたくない為、
あえて大戦時の情報収集事例を挙げます。
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当時、米軍が主戦闘陣地線に使用した最新のマイクロフォン技術応用は
夜間移動兵士の足音を探知し照明弾&集中砲火を浴びせる完璧な作戦と
準備にかける緻密さは感嘆に値する。
それに対し日本の脆弱な情報収集能力による過小評価で起こったガダルカナル攻防戦の
悲劇は形を変えて今も繰り返しています。
革新技術を推進する民間情報収集能力に対し、完全週休2日制9時5時的縦割り行政!
行政の無駄を排除できない情報収集能力と自浄作用が働かない点は
歴史を越えて繰り返してはならない!
先の大戦で犠牲となられた世界の人々に哀悼の意を捧げます。
【ガダルカナル攻防戦】
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参考文献:
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ)(死闘ガダルカナル『第6巻』)亀井宏・著
辻 政信・著/河出書房(刊)・ガダルカナル
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たった一日の戦闘で部隊は壊滅し、一木支隊は敵の過小評価が仇となり悲運の道を
たどることとなる。
アメリカ軍がヘンダーソン飛行場と名づけた飛行場を巡る、日本陸海軍と連合軍による戦いの
幕開けであった。ガダルカナル島は東西140キロ、南北45キロのソロモン諸島最大の島で
年間を通して大変雨の多いジャングルの島である。そこを日本軍は連合軍・アメリカ、
オーストラリアの途中にあるガダルカナル島を占領して、アメリカとオーストラリアの
輸送などを分断しようと飛行場建設に乗り出したのであった。ほとんど完成というところで
アメリカ軍は占領したその飛行場をヘンダーソン飛行場と名づけ、この飛行場奪還作戦で
日本軍は未曾有の消耗戦へと突入する事となるのであった。
陸軍も、そして特に海軍航空隊は多大な被害を被り、ソロモン海は日本軍パイロットの墓場と
言われたほどである。昭和18年2月、完全撤退するまで餓島(ガ島)と呼ばれた飢えと、
マラリア・デング熱・アミーバ赤痢等の蔓延(まんえん)するまさに飢餓の島であった。
この島へ、昭和17年(1942年)8月7日、ガダルカナル島にアレクサンダー・A・ヴァンデグリフト
少将の率いる米海兵隊第1海兵師団が上陸を開始した。
この報に接した大本営海軍部は、陸軍部に対して、兵力の救援を要請したのであった。
陸軍部では検討の末、ミッドウェー島攻略作戦に参加させ、同作戦が海上での大敗北と
島の攻略も失敗に終わり挫折したため、いったんグアムに回航させていた一木支隊を
急遽ガダルカナル島に充(あ)てることにしたのであった。
ちなみに、一木支隊の編成は、第7師団歩兵第28連隊、工兵第7連隊第1中隊および
独立速射砲第8中隊から成り、人員約2000名、支隊長は第7師第28連隊長一木清直(いちききよなお)大佐であった。
当時、第28連隊は、ミッドウェー作戦参加の際に編成が特別に改正されて、その兵力は
約3分の1に縮小されていた。大本営陸軍部は8月7日夜、ポートモレスビー陸路攻略に当たらんとしていた第17軍司令部(百武晴吉(ひゃくたけはるよし)中将)に対し、「今回のソロモン方面の情勢にかんがみ、既定方針を推進すると同時に海軍を援助せよ」と命令を下した。
大本営の新しい命令を受けたとき、実のところ一木支隊は、ミッドウェー作戦が正式に中止に
なったとして、内地に帰還するため7日朝グアムを出港し、海上にあって帰途の途中であったが、急遽、進出していた洋上から急遽グアム島に引き返したのであった。
一木支隊は、トラック島に向かうよう命じられ、同島到着をもって17軍の指揮下に入った。
一木支隊をグアム島からトラック島まで運んだのは、本来なら同部隊を内地に輸送するはずで
あった「ぼすとん丸」 「大福丸」(だいふくまる)という二隻の輸送船であった。
輸送船の常ではあるが一木支隊はもっとも低速の輸送船に乗船していたのである。
両船とも最大速力9.5ノット(17.6キロ)という船脚のきわめて遅い輸送船であって、急を要する
上陸部隊を運ぶのには適当とはいえなかった。
第17軍は、現地海軍(第8艦隊)と協議した末、一木支隊を2梯団(ていだん)に分けることが
決められ、トラックにおいて第1梯団約900名を6隻の駆逐艦に分乗させて、先に送ることになった。この当時、17軍司令部は、ガ島に上陸したアメリカ兵力を、2000名、多くても5000から6000名と過小評価して読んでいたといわれる(内実は、護衛の艦艇が一時撤退する8月9日までに
1万900名の精鋭海兵部隊が上陸してきていた)。
一木支隊の上陸地点はガ島東海岸タイボ岬とし、先遣隊(第1梯団)の上陸は8月18日の夜と
決定された。この頃、ガ島上における友軍(飛行場の設営隊)のその後の状況は
通信がとだえたままで、ほとんどつかめていなかった。一木支隊第2梯団の上陸は、船団輸送で行なわれることになった。
先に書いた輸送船ぼすとん丸および大福丸によって、16日第1梯団と同時にトラック泊地を
出港、22日に同じくタイボ岬に上陸するという計画だった。
一木支隊の直接護衛に当たる第2艦隊(司令長官近藤信竹(こんどうのぶたけ)中将)麾下の
第2水雷戦隊(司令官田中頼三(たなからいぞう)少将)は、8月8日発令の聯合艦隊の出撃命令にもとづいて、11日横須賀港を出港、14日第八艦隊(司令官三川軍一(みかわぐんいち)中将の
指揮下に入ってガ島増援部隊となり、15日トラックに入港した。
先にトラックに着いて待機していた第4駆逐隊(司令佐藤康夫(さとうやすお)大佐一の嵐、萩風、第17駆逐隊(司令北村昌幸(きたむらまさゆき)大佐)の谷風、浦風、浜風拾および哨戒艇4隻が、ガ島増援部隊に組み入れられた。
第4第17駆逐隊および陽炎(かげろう)の6隻で、一木支隊第1梯団を直接輸送し、田中頼三少将率いる2水戦司令官みずからは、軽巡神通および哨戒艇を直率してガダルカナル島に向かう
という計画であった。
敵情を過小評価した軽装備
一木支隊先遣隊(第1梯団)16名を分乗させて、8月16日午前5時トラック泊地を出発した六隻の
駆逐艦(陽炎、嵐、萩風、谷風、浦風、浜風)は、ガ島に直行するように予定の航路を進み
翌17日午前10時20分ごろ赤道を通過した。
一木支隊長は、ラバウルの17軍司令部から特派されてきた
首席参敵松本博(まつもとひろし)中佐とトラックにおいて協議した末、自分の直率する第1梯団の兵力編成を次のように決めていた。
支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾筒24)、
機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が
乗船し急派されている。支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で
第2梯団として送り込まれることとなった。以上はいわば歩兵1個大隊であり
歩兵部隊の携帯弾薬は各自250発、糧食は7日分に限定された。
速射砲中隊も先発できなかった。ひとつには、駆逐艦輸送という非常手段がとられたため
上陸用舟艇が使用できず、このような事態をむかえたのであろうが、この軽装備はいかにも
相手を過小評価していたといわざるをえない。この時点で戦いの勝敗は決定的なっていたように思える。
一説によれば、トラックを出発してからガダルカナルに着くまでの一木大佐のもとに
いっそう楽観的な情報が届き、大佐はしまいのほうに至っては、米軍約2000と読んでいたとも
いわれる。これはあまりにも考えが甘かったようである。
一木支隊先遣隊を乗せた6隻の駆逐艦は、18日、フロリダ島の東側からタイボ岬に
接近していった。同日午後九時ごろ、駆逐艦群は月明下のタイボ岬西方に投錨した。
ただちに上陸作業が開始され、午後11時一木支隊先遣隊は予定上陸付近に無血上陸
集結を完了したのであった。このため、なおさら楽観視してしまったのではないかと思われる。
背後、実は敵正面の悲劇
第1梯団先遣隊は、上陸して約1時間後には、後続の第2梯団を待つことなく十分な敵情視察を行わないままに出発、前進しているのである。敵飛行場の方角に向け海岸線に沿って行軍を
続け、19日午後には行軍即捜索即戦闘という積極策に転じて、20日午前2時30分、コリ岬付近にあるレンゴに到着した。
ここで、友軍・設営隊の旧宿営地と思われる付近に敵の姿を望見した。
一木支隊長は、攻撃計画を策定するにあたり、敵の前進陣地をこの友軍の宿営跡に擬(ぎ)し
主力陣地をその後方の飛行場に置いたらしい。
理論的にそれでまちがっていなかったとしても、問題は米軍がそれらの陣地より、一木支隊から見てずっと手前にあるイル川、という川の対岸を利用して、一帯に長く主戦闘陣地線を構築していたことであった。一木大佐はその事実を全く知らなかった。知る由も無かったのである。
いや、より正確に言えば、そのことを知るすべを持たされていなかったのである。
一木大佐だけでなく、日本軍が漠然と敵の「背後」だと想定していた方向が、実は正面だったのである。一木支隊はまさしく(敵の橋頭堡(きょうとうほ)の一番頑強な抵抗線にまともにぶつかっていくことになってしまったのである。
そして橋頭堡のいずれへも届く本陣地から榴弾砲(りゅだんほう)と機関銃の猛射を浴びることになった。
一木支隊側の本格的な総攻撃が開始されたのは、21日の未明であったといわれる。
敵の集中砲火には、榴弾砲に迫撃砲が加わり、午後10時ごろには敵の一部が迂回して
一木支隊の背後から襲撃してきた。自隊が敵の後方に回ったと思っていたが、逆に敵に背後を
突かれることになってしまった。右側は海であり、支隊は完全に包囲されたかたちになった。
同日午後になって、敵は水陸両用車をくり出してきた。戦闘が終熄(しゅうそく)し軍旗を奉焼したのは午後3時ごろであったとされるが、全滅といってよい敗北であった。
12時間に及んだ戦闘の結果、第7師団歩兵第28連隊 ・第1梯団、一木支隊916名は777名の犠牲を出して敗退したのでした。夜が明けると、日本兵士は海岸を埋め尽くすように倒れていたという。8月21日、大陸では百戦練磨だった、さしもの一木清直大佐も、敵を軽視して無謀な突撃を繰り返し、一夜にして消滅してしまったのである。一木支隊長は自決したとも言われるが、最期の模様は明らかでなく連隊の名誉と栄光の象徴とされる軍旗も奉焼したと言うが、行方は不明である。
一木支隊小史(昭和17年5月〜8月)
5月 北海道旭川市において歩兵第28連隊基幹をもってミッドウェー攻略のため特別に
編成される。支隊長は、第28連隊長一木清直大佐。
5月14日早朝、列車に乗り込み閑散とした旭川市駅を出発。防諜体制
5月18日二隻の輸送船善洋丸、南海丸に乗船して、広島宇品(うじな)港を出港。
出発して2日後、将兵に初めてミッドウェー島攻略作戦の事実が明かされる。
5月25日サイパン島入港。珊瑚礁に囲まれた泊地で、折畳舟(おりたたみしゅう)
使用した敵前上陸の特訓が実施された。
5月28日サイパン島出撃。サイパンから、艦艇の護衛を受ける。
6月4日敵機に発見され、触接を受ける。
6月5日第28連隊の軍旗祭の日旗手伊藤致計少尉を先頭に全員輸送船の上甲板に
整烈軍旗祭をとり行なう。
6月6日機動部隊の敗北の悲報とどく。護衛艦艇の大半はなお前進を続けることになったが、
一木支隊を乗せた輸送船は反転する。16日グアム島上陸。以後2ヵ月近く
旧米軍兵舎跡を利用した駐屯生活を送る。
8月6日本国への帰還命令がとどく。
8月7日早朝、二隻の輸送船に乗船、出港するが、大部分の者は翌8日朝目覚めて驚く。
自分を乗せた輸送船が、きのう朝出港したはずのグアムの港に
停泊していたからである。
8月8日そのままの輸送船でグアムを出港。
8月12日トラック島に寄湾。一木支隊は第1梯団と第2梯団に分けられることになる。
8月16日第1梯団は先遣隊として、駆逐艦6隻に分乗り、トラックを出撃。
途中でガ島行きが全員に通達される。
8月18日深夜ガダルカナル島タイボ岬に上陸する。21日未明から午前3時ごろまで
ガ島飛行場付近において激烈な戦闘が行われ、一木支隊先遣隊は
壊滅(かいめつ)した。
上陸以来苛烈を極めたガダルカナル攻防戦も、1942年(昭和17年)12月31日、御前会議に
おいて、飢餓の島ガダルカナル島からの撤退が決定されたのであった。
1ヵ月後の1943年(昭和18年)2月1日から7日に於いて、撤退(ケ号作戦)作戦が行われ一先ず
成功したのであったが、動けなくなった傷病兵には自決という結末が待っていたのであった。
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