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1. |
藩財政を内外に公開して藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを
明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって
数年後には完済している)。
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2. |
大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米市場の動向に
左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、
災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
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3. |
家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、
また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。
方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
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4. |
多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)
相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に
兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、
信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
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5. |
領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの
特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。
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6. |
だが、他藩の専売制とは逆に生産に関しては生産者の利益が重視されて、
藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。
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7. |
これら特産品を商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避けて
藩所有の艦船(蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で
江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。
これによって中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに
航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった
若き日の新島襄もこの航海演習に参加したことがあるという)。
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8. |
藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも
藩士へ取立てた。
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9. |
桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。
更に道路や河川・港湾などの公共工事を起こして貧しい領民を従事させて
現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。
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10. |
目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。
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11. |
1犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。
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12. |
下級武士に対して、一種の屯田制を導入して農地開発と平行して国境等の警備に
当たらせた。
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13. |
「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入して、若手藩士と
農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(また、方谷自身も他藩を訪れて
西洋の兵学を学んだと言う)。
この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。
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14. |
方谷は朱子学(とこれを奉ずる幕藩体制)の弱点を己の欲望を絶とうとする
余り義に適った利までも卑しんでしまい、結果的には正当な勤労による
利益までも否定的に捉えてしまう点にある事に気付いていた。
従って、当時の幕藩体制ではありえなかった藩(武士)が商業を手がけることに対して
非難の声を受ける事もあったが、あくまで藩主・家臣が儲けるための
政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを
最大限に還元するための手段であるとしてこの批判を一顧だにしなかった
(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を
減らしている)。これによって、松山藩の収入は20万石に匹敵すると言われるように
なり、農村においても生活に困窮するものはいなくなったという。
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15. |
また、方谷の思想は後に弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、
渋沢栄一らに影響を与えることになった。また至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と
慈愛の精神を説いたことでも知られる。
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